今、物議を醸しているサカキバラセイト(少年A)の著書「絶歌」の話で
興味深い話が、とあるブログにあったので記してみる。
そのブログは元フジテレビ・アナウンサー、長谷川豊氏の書いたもので、 殺人犯の著書を批判する人たちには「ある視点が抜けている」と書かれたものだった。
http://blog.livedoor.jp/hasegawa_yutaka/archives/44447913.html
そう、誰でも加害者側になる可能性を言っているのだ。
犯罪、ましてや殺人事件ともなれば犯人が憎まれる、バッシングされるのは当然です。
が、猟奇的なこの事件はもとより、各種事件でよく見るような
「犯人がどれだけ変人・キチガイか」という話で嘲笑し、
自分たちのような普通の人間とは別の生き物かのように
話してるのには違和感を感じる。
全く同じ状況だったら罪を犯してしまう人はいるんじゃないか と思える事件もあるように思えるし、 図式はいじめと変わらないんじゃないかと思える。
「犯罪者はバッシングされても仕方ない」とは思うのだが、
それよりも「変な人には何を言ってもいい」
というように個人的には見えてしまうのだ。
たしかにサカキバラセイトの場合、猟奇的な事件なので「バッシング」は必要と思うし、そのバッシングを跳ね除けるくらいの改心を見せないといけないのだと思う。
ただ、だいたいは何もやらない口だけの人間が、人のことを笑ったり、 何だかんだ言ったりするものだと思う。
身の回りの人のことならいざ知らず、 直接は関係ない人をも笑うことに一生懸命なのか。
ブログには少年Aの家族はどこにでもいるような普通の家族だったとある。
個人的には少年Aも元は普通の子供だったんじゃないかと思う。
生まれ持った性格のせいだけで、キチガイになったのだろうか?
案外、人を「変人・キチガイ」にしうる環境は 身近にもあるんじゃないだろうかと思う。
誰からも話しかけられない人がいたり、人に笑われてばかりいたり、 安心できる居場所がなかったり・・・他にも意外とあるんじゃないだろうか。
犯罪者が悪いのは事実で、罰を受けたり、排除されたりするのは必要。
だが、キチガイになる前、もしくは、なり始めの頃だったら何とかなったのではないかとも思う。
空気を読むことばかりを大切にして、みんなが同じ事ができないといけない文化・習慣ではなくて、個性が封じ込められない社会なら、逃げ場のある社会なら、このような悲劇は減るんじゃないかと思う。
その為にもまずは「あり得ない」、「そんなこと言ってないで」といった 否定の言葉を減らすところから変えられるのではないかと思う。
「あり得ない」と思ったところで、目の前に実際にある(いる)わけだし。
「無理」かどうかなんて、やってみないとわからない事も多いわけだし。
その代わりに「だったら○○したら」とか、
「△△な考え方もあるんじゃないか」
といった感じに話を膨らませてくれる人がいてくれたら嬉しくないだろうか?
そんな世の中のほうが健全だと思うし、何より嬉しい。 ・・・
余計な話をしました。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。