メタル、音楽、日々のこと。

なんとか生きている人と音楽

鬱から完全復帰すべく、頭と気持ちの整理の為にも色々書いてたりします。あと時々音楽の話。

今の時代、関係性が希薄は必然?

 

 今の時代は関係性が希薄と言われ、それは国が悪いとか、親が悪い、学校が悪いなどと言われることがあるけど、完全に必然だと感じる。

 

 何故なら

個人で生きようとしても死ななくてすむ、ありがたい時代になったから。

 

それを時代を区切りながらまとめてみます。

 

 

  1. 人間誕生から明治、大正、昭和初期
  2. 戦後まもなくから1960年代くらいまで
  3. 1970年代
  4. 198090年代、そして2000年代

 

 

 

 

  1. 人間誕生から明治、大正、昭和初期

 

 よく昔は人のつながりが密接だったと言われるようだけど、それは集団生活じゃないと命を守れなかった側面が今より圧倒的に強かったからだと思う。

 集団で生きる他に選択肢が無かったとも言える、人間が社会的な動物と言われる所以の話。

 

 マンモスを追いかけていたような縄文時代にはみんなで協力して獲物を追い回し、倒し、分解して家まで持ち帰ることなどをしないと食べ物が手に入らなかったので、当然、何人〜何十人とで協力して生きていかないといけない時代があった。

 

 そんな1万年昔みたいな話じゃなくても、100150年前ですら集団で生活していないと生きていけない時代だったと考えられる。

 

 明治生まれ、大正生まれの、今生きていたら100歳はゆうに越える世代までは兄弟姉妹が多かったらしい。

7,8人いることも結構あったとか。

 そんな中で、1920年代にある世界恐慌のあおりかもしれないけど、多い兄弟姉妹の中で誰か幼くして亡くなっていることも少なくなかった印象がある。

(うちの祖父は1920年代生まれだけど、たしか弟?が4,5歳で亡くなっていると聞いたことがあったりする)

 そして1937年からは日中戦争1939年からは大東亜戦争がある。

 なおのこと、身近に亡くなってる人がいるだろうし、兵隊や軍需産業に人手を取られたところからの労働力不足によっても集団での協力が不可欠な時代だったはずで、集団の和を乱す奴がいたら今以上にものすごく迷惑な存在と見なされたに違いない。

 寿命も今ほど長くはない。

 晩年は寝たきりで家族が介護することも今よりも多いなど、死や老いが身近な時代。

 さらに農業も機械化されていなくてみんなで協力して作業をしていたことや、戦時中の隣近所の協力体制なども含めて、人と人が密接に繋がり集団の論理に従わないないとどうしようもなかった。

 個人では到底生きていけないと思いやすい時代がずっとあった。

 それは明治〜昭和に限らず、人類の歴史を見たらもっとずっと続いてきた訳です。

 

 

 

  1. 後まもなくから1960年代くらいまで

 

 

 その直後に昭和の戦後の時代がある。

194560年くらい?)

上記の感覚をリアルに経験して生きてる人たちもいれば、ひとつ下の世代(団塊世代)も直接見聞きしている世代。

 やはり集団で生きていく事は当たり前の感覚で、それに抵抗感を感じるのは一部の先進的なインテリとか国家権力が嫌いな左翼にしかいないと言ってもいいくらいの時代があったのではないかと思う。

 そこから時代が進み日本が復興、発展していくにつれ、上京して働くことや、ホワイトカラーの仕事が良いと見なされるようになっていく。

 住むところが変われば、昔からの人間関係から新しい関係性に変わるもののこの時点ではまだ境遇が似ている人が一定数いるせいか、集団優先の価値観は崩壊の兆しを見せてないように思える。

 団地や住宅地ができて、そこで町内会なんかも発足してお祭りが新たに開催されるようになったりもする。

 ただ、本来のお祭りの趣旨に含まれていた商売繁盛とか豊穣祈願という名目は弱くなったと考えられる。

 と言うのは、明治生まれ、大正生まれの世代までは、ちゃんと農作物が育ってくれないと身近に死人が発生する可能性がある。

言い換えれば豊穣祈願=死にたくない的な思いだったとも言える。

 そのような切実な思いと、ある程度経済が発展してきて、少しずつ死が遠ざかり、願うのは「より豊かな暮らし」というような思いでは大きな差があって当然。

 今を生きる我々がそうだと思うけど、この頃にはもう既に商売繁盛どころか、少しでも夏の思い出になれば良い、くらいの感覚ですらあったのかもしれない。

 願いの切実さに比例して、少し関係性も弱くなったのではないか。

 町内会での協力はゴミ収集などの部分で自分たちが困らないように協力する程度で切実な理由はないし、お祭りも上記のようなもの。

一人になったところで生きていく分には昔ほどは困らない。

たとえ近所と関係性が悪化したり、ハブられるようなことがあったとしても食べるのには困らない時代に少しずつ突入しているんですよね。

 そういう意味でも集団で生きていく必要性が弱くなっていく。

必要性が弱くなるということは、集団から抜け出しやすくなったとも言えるのだけど。

 

 

 

  1. 1970年代

 

 1970年代以降になると、経済的にも豊かになってきて、それぞれが個人で頑張って出世競争みたいな価値観がより一般的な時代になっていく。

 

 この頃からじゃないですかね。

芸能界が本格的に活性化して、一般人からもそうなりたいと思う人たちがあからさまに増えてくるのは。

 

 もっと前からかもしれませんが

流れは変わらないのでこのまま進めます。

 

 今でこそ、芸能界なんてものは人気者になれる、夢のある業界だけど、昭和以前の芸能界的なものは大道芸人的な存在だったり、裏社会とも繋がりのあるような繁華街のエンターテイメントに過ぎない訳で、なりたいからなるというよりは、身寄りがないとか何かしら事情があるような人が食べるためにやる、カタギとは言い難い立ち位置だったりしていた。

 とはいえ、裏社会も今の暴力団みたいなただ悪どい存在というよりは町の自警団的な側面も強くて、トラブル回避の為の用心棒的な存在(少し違うけど)だったりした訳だけど。

 時代が進んでラジオが出てくることで一般人にも広く知れ渡る有名人が出てくるようになるからだと思うけど、ただの水商売からカッコいい存在になる人たちが出てきて、テレビの時代になると、それがさらに加速する。

 厳しい上下関係など、裏社会的なものが残るのは残ったけど、多くの人たちの目に触れる分、少しずつ安全なカタギに近い界隈になっていったであろうと推測します。

 

 芸能界が盛り上がるとか、好きな音楽をやるということがやりやすい平和な時代になっていくのですが、世の中のメインの流れは経済成長の影響か、良い高校、良い大学、良い会社と学歴社会に突入していく訳です。

 少しずつ個人の成功を願うほうが強くなりますが、ここではまだ町内会がちゃんと機能していたり、隣近所の関係性がまだ残っていたりするなど集団生活によるメリットもだいぶ享受してきた人たちがいるので、個人で生きていくというよりは、より強い集団に入ることが良しとされていたように思います。

 同じ大学の卒業生や、入った会社の同期、先輩後輩など。

 言い換えると、どの集団に属するかを自由に選べる時代になったとも言えます。

 

 遊びが増えていく時代でもあるので、その分、一般人が政治への興味が向きにくい時代になっていったのはこの頃からかもしれませんね。

 

 

 

4. 198090 年代、そして2000年代

 

 80年代はこの延長線上にあって、遊ぶ人と真面目に頑張る人が二極化していった時代じゃないかな、と思います。

 どちらにせよ、どの集団に属するかは選べる時代になっているので、個人の感覚で選んでいく、良く言えば自由で流動性のある、悪く言えば今までの集団生活の論理が通じないようになってきたとも言えます。

 

 加えて、集団が本格的に経済レベルによって固定され始めていきます。

裕福な集団は裕福な人たちの価値観で動くし、貧しいほうは貧しいほうの価値観で動く。

住む場所も高級住宅街と団地などで分かれていく。

 人と人が繋がる理由が地縁ではあるのですが、経済的なものからくる時代とも言えますね。

 

 でも面白いのは、経済的に良い立ち位置になれない、芸能界に入るなどして人気者になれないのなら、ファッションとか生き方でステータスを作れるようになり、ある特定の人物がカリスマ化し、それを参考にして生きていくような人たちが増える。

 集団とは言えない、でも影響力があって、共通言語のある人たちが全国規模で増えてくる。

正確にはいつからいるのか分からないけど(80年代?)、ヤンキー、暴走族なんかも同じ類のものでしょう。

 自己実現の話と言えるのかもしれないけど、憧れる存在、ある意味では教祖のような存在がいて、それと繋がるような気持ちになる為のファッションや行為がある。

 

 

おそらく、90年代もその延長線上。

 

 ここまで来ると、戦後まもなくから見ても2世代は過ぎていて、もう昔ながらの集団の必要性を感じない人が多くなっている。

 自由主義的というか、資本主義的というか、より有意義な界隈にいたほうが、人生において得をすることになるのだから。

 よりステキな界隈があれば、どちらかと言うとダサい界隈と見なされる人たちもいるのも必然となる。

 

 このような価値観の元で成果を出した人たちが言うのだと思うけど、2000年代以降(後半?)は「好きなことをやったら良い」的なフレーズが頻発することになり、願う者、願わない者、好きなことが見つけられた人、見つけられなかった人など色々な要素で差がついていく。

 価値観の差も大きくなり、自己責任論が強くなってきたりもする。

 

 さらにネットの発展とともに有名になるのにも稼ぐにも個人の力だけでも可能な時代になっていくと、更に差が広がる。

 もう少し正確に言うと、ネットの掲示板時代を経て、SNS時代になり、自らの努力で何とかしたい意思を持った人が繋がる、協力することが容易になったので既存の会社などの集団に頼らずとも個人の力で生きていけると思う人が増えたということ。

 

 そうして個人個人が自ら選んだり、流れに身を任せた結果、2024年の日本は経済的な理由だけでなく、色々な理由で優劣が大きくついてしまうようになった。

(優劣がついてるように見えるようになっただけ?)

 なので、親ガチャと言われたり、「たまたま近所に住んでいただけなのになんで深く関わらないといけないの?」みたいな意見が出てくるのは全く不思議ではないと思う。

 

 

 加えて、最低と感じるラインが引き上げられてしまっているからツラいのだと思う。

 上記の話とダブる部分もあるけど、

歴史上ずっと1970年代くらいまでは文字通りに今日食べるものにも困ることなど、死にそうな(と言ってもいいくらいな)人が最低ラインとして認識されていたのだと思う。

 けど、社会が豊かになり人が簡単に死ななくなった現在においては、食べ物には困らなくても、一応車は持っていても最低と感じてしまう人が増えてるみたいだ。

 

 これは良いことでもあるのだけど、社会の中で最下層に近いように見えるツラさという意味で言えば実は大差の無い話に思う。

むしろ、昔のほうが食べ物がない、病気が治せないだけなら、そこさえクリアできたらと希望が持ちやすかったのかもしれない。

 

 社会が底上げされてる分だけ、高みを目指しやすくなった側面もあるだろうけど、それは強者の話。

多くの人は平均を目指すからタチが悪いのだと思う。

 昭和なら中流の暮らしというものが定義されていた面があって基準も分かりやすかったのだけど、今は分かりやすい中流の基準がなく、目指すのは個人の幸せなんていう千差万別のものになっていっている。

 そんな中で世の中で中流を目指してしまうと、目立たない=普通という幻想のようなものにしがみつくことになり、無色透明みたいな人間関係ばかりになってしまいそうな気がする。

 社会に希望がない的な話はこういうのが原因じゃないか、とすら思う。

(昭和の希望も誰かが作ってくれていたものだと思いますが)

 

 

 

 

 

 この流れを陰謀論的に見たらGHQが日本人の価値観を壊したとも言えるのかもしれない。

アメリカ流の自由を良いものだと思い込ませるところから含めて)

 

 日本人(の先輩たち)が戦後に生き残りをかけてもがいて、頑張って、でも取りこぼしてきたものがあったからこうなっているのかもしれない。

 

 何にせよ、新たに人と人が繋がる理由、もしくは、人と人が助け合う理由を再構築しないとどんどん弱肉強食の時代になっていくのだろうと思う。

 

 食べるために(死なないために)働く時代から

より良く生きるための時代にシフトしてきているのは間違いない。

 

 とは言え、昔なら毎年の地域のお祭りが生きるモチベーションになったり、集団が提供してくれる楽しみはあったとは思う。

でもそれは知ってるのは自分の町とせいぜい隣町くらいだったり、高さを具体的には知らない=高望みが難しいという側面があったから機能していたように思う。

 

 逆に今は高みがなんとなくは見えるのに自分の考え方では辿り着けないもどかしさがあったりする。

人と比べやすいから、簡単に自分には無理だと思えてしまうのかもしれない。

 

 死が近いけど求められることも限られる時代と、死は遠くなって自由な時代と、結局はどっちが良いのだろう??

 

 

最後まで読んでいただきありがとうございます😊

 

 

 

 

 

悩むことが多い人は実は考えるのが得意になり得るのではないか。

 

 しばらく余計なアウトプットばかり書いていたら、実はできるようになってるんじゃね!?と思ったことがあったので書いてみます。

 最近は調子が良い状態も長いけど、年1くらいではクラッシュしてます😅

実はこないだも12月に2週間ほど休んでしまいました。

職場の人もむしろ心配してくれるので本当にありがたいのですが、申し訳なさがあったり、やっぱりダメだなと思ったりします。

 

 でも、気づいたんです。

鬱のひどい時以外は深刻に悩んでないかもしれない、と。

前だったら、多少体調が良くなったところでこれから生活していけるのか?とかなんとかネガティブに引っ張られて色々と悩んだ気がするのに、ですww

 

 それはたぶん、この数年でインプットしながら考える習慣ができたから変わってこれたのだと思ってます。

 

 悩みが苦しいのはどうしたら上手くいくのか?が分からないからなのだけど、もっと根本を見てみると、自分の中、もしくは近くに解決策が見つけられないから困るのだと思います。

当然と言えば当然で、今までの経験や知識で何とかなってるのなら悩まないんですよね笑

なら、自分以外で、かつ、少し距離のあるものに答えを求めるしかない。

病院の先生からだけじゃなくて、本やネット、YouTubeなどからインプットをする。

自分に無かったものを取り入れないと、結局は堂々めぐりにしかならなくて、さらに落ち込むことになってしまう

これがマジで辛いんです…(´ω`)

 

 でも、

知れば考えられる。

それに試してみることもできる。

正直なところ、ハッキリとこれが答えだ!と言えそうなものにたどり着くことは稀なんですけどね笑

 

 だから、探すのはヒントとか、使えるんじゃないか?と思えるようなこと、次の一手になりそうなこと。

 これを続けていたら、悩みの解決という大きくて遠い目標みたいなものから、今日よりも明日とか遅くとも1週間後くらいには何らかの変化があって1.01倍くらいになってる状態を想像できるようになった。

自力で分からなかったら外を頼れば良いだけだったから。

 

 実はこの1.01倍というのは侮れません。

微々たるものと思いがちですけど、

10回で1.1倍に到達し、

20回後でも1.22倍、

50回後には1.64倍、

100回後には2.73倍にもなってしまう。

1年間、毎日できたとしたらなんと37.8倍!

これはもう完全に別人と言ってもいいくらいですよね?

2.73倍でもそうかもしれません。

 

 そんな1.01倍って、おそらくヒントを1つ見つけるくらいでいいんじゃないでしょうか。

見つけようと少しだけ探してみるだけでもいいかもしれません。

 

 検索サイトを変えたら微妙に違う結果になったりしますし、XTwitter)やInstagramで検索したらまた違う内容が出てきます。

YouTubeポッドキャストでもまた違う結果が出てきますし、文字よりも音声でインプットしたほうが疲れないかもしれません。

僕はけっこうそうでしたw

音声ものは本みたいに堅苦しくないので、多少体調の悪い時でも聞けそうですw

 

 「鬱 対策」みたいに雑な検索で出てきた結果の中からキーワード的なことだったり、これってどういうことだ?と思える点があったら儲けもの。

さらに次の調べ物ができるのですから。

ここまででも何回か1.01倍ができてるかもしれませんね。

どう見ても1回は確実にできているでしょう。

 

 そうこうやってたら、謎を解いてるような感覚になってきました。

自分の場合、考えるのは好きなことのようでして、実は悩むのは向いていることなのかもしれないと思い始めています。

 

 このような発想の転換ができているのも、色々とインプットしたり、現状を観察して把握したり、考えたり、試したりしたからだと思ってます。

 

 僕はけっこう漫画や小説を読んだり、アニメや映画を見たりもするんですけど、物語って話が大きく進むタイミングには登場人物がかなりの確率でインプットしたり、状況把握したり、考えたりしている。

そして閃いたりして次に進めていると思ったんですよね。

特にバトルものの漫画、アニメはそれが顕著だろうと思います。

強敵相手には必ずと言っていいくらいやっている。

戦いながら謎解きもしているのです。

(そこまでは無理w)

 

 

 これは自分の推測に過ぎないのだけど、よく悩む人というのは考えるのが好きとか得意なんじゃないか?とも思います。

現状の正確な把握と適切な思考方法があれば、実は無敵でどんどん謎を解いて進んでいけるのではないかとさえ思います。

言い過ぎですかね?

 

 まず、その現状の正確な把握が難しいのですが…

僕の場合、適応障害とか鬱などと診断された時には、ものすごく屈辱感があったというか…ww

 でも、なけなしの貯金も尽きてきたり30過ぎてから親を頼らざるを得ない、など四の五の言ってられなくなってきたら把握せざるを得なくなってきましたし、色々とやってみたら、何かがおかしいと感じる時が来るので、それからでも現状把握は悪くない気はします。

 ここで間違った人を頼ると、同年代の現状(ちゃんと働いてたり、結婚子育てしてることなど)や、いわゆる社会の常識に引っ張られてしまい自分の状況の把握につながらない。

これが1番恐ろしいと思うので、なるようになるくらいが適切なのでは?と思っています。

アバウトでなんですが。

 

 

 続いて、適切な思考方法にするのにできることは2つありそうです。

 

1つは視点を変えて考える

もう1つは思考方法そのものを普段とは違うものにしてみる

 

 視点を変えて考えるのは例えば、自分と同じ状況だったら他の人はどのように見るだろうか?と見てみること。

ここで自分の頭だけでイメージを膨らませて考えてしまうとドツボにハマはことが多いと思います😅

なので、例えば上記にあるバトルものの漫画やアニメのようにやってみるとか、一連の流れに沿ってできると最高なんじゃないかと。

あとは、悩んでる自分の相手をしてあげるとしたら何と伝えるか、質問するか、なども良いかもしれません。

仲のいい人が悩んでいたとしたら、どう間違っても罵声を浴びせたりしませんよね?

正論もあまり言わないんじゃないでしょうか?

でも、自分に対しては簡単にやってしまいがちなんです。

悩みの多い人って、意外と自分に厳しいと思います。

少しくらい辛いことを認めてあげましょうよw

(昔の自分にとっては難しそうですけどww)

 

 思考そのものを変えるほうは少し難しいかもしれません。

とはいえ、自分の頭の中で繋がっていることを疑えばいいだけです。

例えば、こういう時は〇〇するべきと頭の中で思っていたとしたら、それを疑っていく訳です。

本当にそうなのか?というイエス・ノーで答えられてしまうような質問は不適切かもしれません。

すぐに終了してしまいますからw

 

他に選択肢はないのか?

そうしなかったらどうなるか?

 

と考えるのも大事ですし、

 

他の選択肢を選んだ人はいないのか?

 

と疑問を持てれば、調べてみることにも繋がりそうです。

調べることに繋げられると自分以外の知恵を借りられる可能性が増えるので、ヒントを得やすくなると思いませんか?

 

 

場所が変われば感じることが変わったりするので、ある時にふと疑問が出てくる時があったりしました。

ん?ちょっと待てよ?〇〇ってこういう見方もできるんじゃね!?と。

この便利なご時世ですから、スマホにメモしたっていいじゃないですか。

そして後から調べてもいいんです。

 

 悩みごとって、頻繁に頭をよぎったりしますけど、これは逆にチャンスでもあるはずです。

 

 僕は鬱と診断されはしましたが、途中からは鬱の対策ばかり考えていてもどうせ無理なんじゃないか?と諦めモードになった事もありました。

けど、野球のイチロー選手のインタビューをたまたま見た時に彼みたいに一流の人間は鬱にはならないんじゃないか?と思い、そういう人がスランプになったらどうする?スランプにならないように対策してたりするのか?と気になってきて、謎解きモードが再開できました。

 

 しばらく調べたり、周りのつぶれない人を見ていて分かったことは、悪いことを必要以上には見ないように意識的に目を逸らしているのだ、ということ。

失恋した時にあえて仕事や勉強に打ち込むみたいな話でした。

人に指摘された欠点で、かつ、自分でもその通りと思ったことは解決しないと先に進めないかのように思っていた当時の僕からしたら、目を逸らしてもいいんだ!?という衝撃すらありましたねw

そういう人たちは自分の欠点を直そうとするよりも、目標達成に重きを置いてそうでもありました。

欠点があったままでも目標はクリアできる、というのも当時の僕にとっては衝撃的なことでしたw

なので、メンタルを病まないというのは、その人が強いからとか、向いてる仕事だからとかじゃなくて、エネルギーをどこに注ぐかの違いなんだな、などとも思った訳です。

マインドフルネス的とも言えそうです。

意識がそれてしまったら、それたことを自覚して戻す、これを繰り返すのがマインドフルネスの基本だったと思いますから。

(とんでもなく雑な言い方ですけど)

 

 

 

 そんな感じで自分以外の外の世界にはヒントがたくさん転がってるんだなぁと思うようになりました。

 

 この数年間、3歩進んで2歩下がるようなことをしてきた訳ですが(時には20歩くらい下がった気もしますが)、おかげさまで鬱になりたての頃みたいな、この世の終わりかのような絶望感はだいぶ無くなりましたね笑

時間はかかりましたが、必要な時間だったのではないかと思います。

いや、そう思いたいだけかもしれませんw

もう少し早く気づけたら良かったのに、と思ってる部分もありますがww

 

 結局、悩みというのは意味があったかどうかは分かりません。

が、何かのきっかけにすることはできる気がしてきてますし、考えるというのは悩むのとは似て非なるもの、と分かったのは大きかったと思ってます。

 加えて、後からでも変えていけるスキルのようですし。

 

 

 

最後まで読んで頂きありがとうございます♪

 

 

 

 

いじめは承認欲求の問題

 

 

 残念なことに悪質ないじめのニュースは絶えない

 

 ネットを見てると犯罪行為なんだから厳罰化しろとの声がすごく強いように見えますが、いじめって悪いことかどうかよりも、承認欲求の問題として見ていかないと減らせない、と考えるのは暴論でしょうか。

 

 人間誰しもが世間や他人よりも仲間内のほうを優先したい生き物ですよね。

だから多少は世間から変に思われたとしても、「仲間内で良しとされたらオッケー」と思えることは意外とある訳です。

この「仲間内でのオッケーがある」というのがいじめでもポイントだと思っています。

これを承認欲求を満たした状態として話を進めていきます。

 

 いじめというのは、仲間内でウケたり、リアクションしてくれたりして何かしら楽しい思いをするのなら、仲間とは思ってない人を攻撃することは悪いと思ってたとしても、仲間からの反応のほうが優先されてしまう事だと思うのです。

 

 まして、最初は実にちょっとしたことから始まったらどうか。

少し笑える発言があった、

少し人を嘲笑するくらいだったら、

それを周りからは何も言われなかったとしたら?

むしろ仲間内では盛り上がったとしたら?

 

簡単に「次の一手はどうしようか?」と思ってしまうはず。

これって客観的に見たら悪いことに見えますけど、仲間内の視点だけで見たら間違いなく善意なんですよね。

「どうしたら仲間が喜んでくれるか?」

という考え方ですから。

 

 

 周りからも最初のうちはちょっとからかってるだけに見えて、よくあることのように思うでしょうし、そんな事でいちいち叱ったりしていては学校側も仕事にならないのでは?と思います。

 これが少しずつ少しずつエスカレートしていくので、大問題になっていたとしても、いじめる側も周りも気づきにくい。

そんなパターンがあるんじゃないかと思うのです。

逆にケンカみたいな明らかに問題な行為が最初からあったら、喧嘩両成敗とかなんとか言って怒られますよね。

まさしく茹でガエル理論な訳です。

 

 

茹でガエル理論とは

 カエルを熱湯に突っ込んだら即逃げられますが、水からゆっくりと温度を上げていった場合、温度変化に気づきにくくカエルは茹で上がってしまうこと

 

 

まさしくではないかと。

 

 

 そんなことある?と思うかもしれませんが、例えば学校や職場で人と関係性が悪くなるきっかけって、実はほんとに微妙なミスだったり、少し言葉が足りないことだったりしませんか?

 そこから挨拶しかしなくなったり、他人行儀な話だけしか話さなくなったり、その人がいてもいないかのように周りだけで話すなどして、気づいた頃には話しかけようにもお互いに気まずいような空気が出来上がる。

 下手すると周りに溶け込めない奴が悪いなんて認識にもなったりする。

そうなると、余計に何もできなくなってしまう。

 

 もし、仲間はずれにしてる側が注意されたり、何か罰があったとしても、悪気があってやってることではないから、と自分の行動を振り返るきっかけにはなりにくいだろう。

 

 例えばこんな感じで少しずつ少しずつ距離が出来ていくので、無視や仲間はずれなんていう悪いことをしている認識は薄いはずなんですよね。

 本人からしたら意味不明に仲間はずれにされてると感じていてもおかしくないのに、です。

 残念ながら、世間ではこの程度なら意外と多くあるんでしょうね。

(そういう自分も、もしかすると気づいていないだけで加担しているのかもしれません)

 

 それでもやはり、多くの人は人の嫌がることを行動に移すところまではいかないんでしょうけど、このようにごく些細なことから始まりちょっとずつ変化していったとしたら、悪口が相手に聞こえてしまったり、何かエスカレートするきっかけができてしまったら、そんな悪口だって、「ちょっと聞こえちゃうよー笑」みたいに仲間内での楽しさのほうが簡単に優先されてしまいがち。

 

 そして時間が経つと、大問題になっていたとしても仲間内では大いに盛り上がっているから悪いことをしてる認識は薄く、気づかないというようなことは起こり得ると思う。

 周りにいる人たちからしても、いつから、何がどう悪いのかハッキリとは認識できないから、注意も反論もしにくい。

まして多数派だったり、カーストの上位と見られてるグループだったりしたらなおのこと。。

 それで例えば、いじめられる側にも悪いところがあるから直すように要求したりするなど、安易に多数派が少数派に対して対処方法を決めて終わり、とするなど対処方法と呼べるようなものは出にくくなるような状況は意外と簡単に出来上がりそうです。

 

 問題の肝は仲間内の盛り上がりや連帯感が、誰かの犠牲の上に成り立っているところだというのに。

 

 なので?

 集団生活の中では大人数が盛り上がってるのを止めさせるのは時として悪いことのように写ったりもする。

 

 学校側の監督責任で叱れば良いとか、厳罰化して罰を与えたほうがいいとの話は簡単に出てくるようですが、単に間違った人を排除するだけで再発防止やいじめ対策にはなり得ないと思います。

 何がどのように悪いのかをハッキリとは認識しにくい訳だし、なんせ承認欲求という抗い難い欲求を満たす為の行為な訳だし、それでいて仲間内は楽しいのだから。

さらに範囲を限定して見た場合、誰にも悪意は無い、とも言えてしまうんですよね。

 

 

 最近の日本がおかしいからそうなるのだろうか?

個人的にはそれは違うと思う。

社会が次のステージに突入しているからではないか、と。

 

 現代の日本ではありがたいことに衣食住は最低限はあるのが当たり前。

犯罪に巻き込まれるような危険性もほとんどない。

 となると、多くの人にとっての1番の問題は自分の承認欲求が満たされるかどうか、となっているように思います。

 自分で自分を満たしてあげられたら1番いいのかもしれませんが、やはり誰かから満たされるほうを求めてしまいがちですよね。

 

 色々な作品でも人は孤独には耐えられないという話は良く出てきたりしますし、人から認めてもらい、満たされるのは何にも変え難いんでしょうね。

例えが古くてアレですがw

ナルトのこのシーンを真っ先に思い出しました。

 

 

 

 なので、いじめというのも承認欲求の満たし方が間違ってるのだから、と一緒に考えていかないといけない問題なんだと思うのです。

 

 起きてしまったいじめへの厳罰化も悪くはないと思うけど、それ以上に人や自分との向き合い方、もっと言うと対話できるように誰かから教わる機会があって欲しいと思う。

 

 今や本やYouTubeでも学べたりしますが、そんなことができると知らなければ探すことすらできないので、どこかで半強制的にあってくれたらありがたいと思う。

 

 いじめ対策以上に、現代社会を生きるにおいて何が自分の生きがいになり得るのか、何があれば自分は幸せなのかを考えやすくなるとも思うので。

 

 現状では多くの人が人の意見を受け止める聞き方が我流でしかない上に、質問もしないから自分に対しても当然できない。

そんな人が多いから、何かやって上手くいかなかったら他人と比べて「レベル低すぎ…」と落ち込んで終わり。

人のせいにして終わり。

となりがちじゃないですか。

(ちょっと前までの自分がそうでしたがw)

 

その結果、何かが変わる訳でもなければ、自己肯定感も上がらない。

学校のテストだってそうじゃないか。

テストは強制参加で点数の良い悪いは必然的に点数として知らされるけど、悪い結果は隠しがちだし、次回の対策ができるかどうかも本人次第にされてしまいがち。

本当は次に繋げられる養分がたくさんあるのに。

 

そこで、

質問ができると改善にもつながるのだけど、誰からも教わらないから現状はセンスとして持っている人しかできない。

(教えたとしてもセンスはあるだろうけど)

 

分からないのはどの部分か?

聞けそうな人はいるか?

聞くのは恥ずかしいいい照れ隠しはあったりするか?

ネットで調べられそうか?

勉強方法は改善できそうなポイントはあるのか?

点数の良い人はどのように勉強しているのか?

などなど

 

 このような質問が学校でできるようになったら、きっと自分の人生に対しても同じことをする。

それはつまり自分にとっての良い生き方を探すことに繋がるし、もっと自由に視点を変えて質問できたらなお素晴らしい。

 

 これでおそらく副作用的にいじめの件数は減らせるのではないかと思う。

だって、自分の人生のことをちゃんと考えたら他人を攻撃してる暇なんてないですw

仲間じゃない人間をいじめる意味もない以上に時間も体力ももったいなさすぎですからねww

 

 

でも、次のステージにいったら次のステージのいじめがあるだけなんですかね?

・・・

 

 

 

最後まで読んでいただきありがとうございました😊

 

 

 

 

無駄に気づく思考

ここ何年かでできるようになった事?がある。

 

 無駄に気づく思考。

 

けっこうよく「今、わりと無駄な時間を過ごしているな」と感じるようになった。

 

それだけ??って思うかもしれませんが

意外と付随して効果があると感じてます。

 

 

例えば、無駄にスマホをいじってる時間があるとする。

(よくあるww

 

 5年前の自分だったら、

「無駄にスマホばっかいじっていてダメな人間だなぁ…⤵︎」

と感じてしまっていた。

 

 けど、

「あ、これ無駄な時間だ!」

と、気づければその無駄な時間に何ができそうか?と考えられる。

35分時間があったら出来ることは意外とあるんですよね。

 

何かやってみたいこと、

気になってること、

 

なんかを一回だけでも検索してみる。

それだけでも全然変わります。

 

 少しずつ気になる度合いが増えていって、

何か開けた感じがすることが意外とある。

場合によっては画素検索もしてみるのも楽しい。

(予想できないものが出てきたりする時がある)

 

検索も上達するもので

何回もやってたら

自分の探しているものに辿りつきやすくなったりもしますし。

 

 時間がかかるものであっても、

下準備だけしてしまうのもありだろうし、

それも一度にやらなくても良いはず。

 

 今はできないけど、35分あったらやりたい事リストをメモアプリに記すともっと便利になる。

 例えば、仕事中にメモしておいて、ある程度貯まってから「どれを調べようかなぁー?」とするだけでも楽しくなったりする。

 

 前の自分だったら、こんなに貯めたのにやってないや⤵︎と気落ちしていたのだろうなぁと思いますがww

 

 自己啓発系の本とか動画で1日の行動を全て記録して〜、自分が何に時間を費やしてか知るところからなんていう話が意外と出てくるけど、そんなの無理。

 たしかに無駄にしてる時間にももっともっと気づけるのかもしれないけど、そんなの無理w

いきなりやるなんて、尚のこと無理😂

 

 

 だから少し気づけば良いと思う。

そうやって、少しずつ変わる。

とゆーか、少しずつしか変われないと思います。

 

 少しづつ少しづつ変わっていって、

ある時にふと意外と遠くまで来てるなぁ、と感じるものかと。

 

 

 

 

余談。

 

 わずかな?検索のモチベーションアップの為に楽天ブラウザを使っている。

最低5回検索できると楽天ポイント1ポイント貯まるというアプリ。

使った人で山分けするスタイルなので、最初の5回以降はあまり貯まらず…1日の上限は34ポイントのことが多いです。

おかげさまで20241月は検索してるだけで49ポイントいただきましたw

 

 マニアックな単語だと上手く検索できないこともあるボロアプリですけど、そんな検索も意外としないので、まぁまぁ使えるアプリかと思ってます。

 

 

最近、音楽のことは書いてないですが、

最後まで読んでいただきありがとうございます。

 

 

森保監督は本当にダメなのか?相手の視点を知るということ。

今回のアジアカップ2024

日本はベスト8で終わった。

 

いつも通りに?森保監督への批判は多い。

 

 批判が悪いとは思わないけど、批判「ばかり」なのはどうなのか?と感じる。

的を射た批判ばかりならまだしも、中身のない文句もすごく多いと感じるから、ものすごくイヤだ。

 

 森保監督が素晴らしいと盲目的に思う必要はないし、自分も全く思わない。

 

それでも、

 

なんで森保監督はそうするのか?

 

森保監督は実際はどのように見てるのか?

 

という視点が無さすぎるのは問題だと思う。

 

多くの記事で言及されるのはその試合の事だけで、背景までは見えてこない。

 

 

例えば、森保監督の価値観(の一旦)を知るきっかけは雑誌numberのインタビューでたまたま垣間見れただけなんだけど、新たに視点を得たから考え方は広がった。

 

以下、記事の一部を引用する

 

 

日本代表監督として森保監督が決断する際の決め手となるのは、以下の2つ。

 

 ・日本代表の勝利を願う気持ち

 

 ・日本サッカーの発展を願う気持ち

 

 これらは見事に一致することもあるし、時に相反することもある。ただ、森保監督のなかではそれらが『両輪』となって背中を押すという。

 

全文はこちらから

https://number.bunshun.jp/articles/-/860515?page=2

 

 

 

 この記事から読み解ける(と自分が思った)こと

 

森保監督という人は戦略だけをガチハメして、今日の試合に勝つというだけでは日本サッカーの発展には繋がりにくいと思ってるのではないか?

 

 現に対ヨーロッパ国なら意外と戦略で勝てることはある。

けど、体格の差があったり、こちらが押されてくると選手だけで試合を立て直すような力も欲してそう。

それは無理難題な気もするけど、本当の強豪チームというのはおそらくそれができる。

(毎試合とは限らないだろうけど)

日本サッカーは世界の上位に食い込めてきているのだから、本当の強さも日本サッカーに落とし込もうとして長い目で見ているのではないか、と感じる。

 

 対して、多くのサッカーファンはそんな先々のことよりも、今、面白い試合を観たい!と望んでいるから文句に繋がりやすいのではないか?

 

 

 

 

 これは会社で「上が悪い」、「会社が悪い」などと上司の愚痴ばかり言うのと構図は非常によく似ていると思う。

 

 ま、相手のせいにするのは簡単なんですよねw

(自分もしますがw

 

 上は傲慢とか強欲とか、命令すればいいから楽だよな、とか気楽に言えてしまうような価値観とリンクさせれば一応、仕方がないかと納得はする。

けど、それで何か変わる訳でもない。

せいぜい愚痴仲間ができるだけで、

成長なんてしない。

 

 めちゃくちゃ不毛じゃないですか?

 

 会社側、上司というのは一部署だけを優遇なんてできないだろうし、5年後のことも見据えて今はこれをやる、と言った選択をしていることも多いと思う。

(管理職や社長の役割を勘違いしてる人もいるので一概には言えないのだけど…)

 

 これはあくまで自分の経験から見えてきたことなだけ、と言えばその通りで否定したい気持ちが出てくる人もいると思う。

 でも、ここでは安易に否定をしないで欲しい。

 

 じゃあ、どうすればいいか。

上が「実際には」どう思ってるか探ったほうがいいと思う。

(想像上の話じゃないから、自分の知らない価値観も当然にあり得る)

 

 イエスマン、いい子ちゃんになる為じゃあない。

もし仮にクライアントが相手だったら、相手の意図を考えて次の一手を提案できるのが100点ですよね。

 逆な的外れな提案をしがちな人というのは才能がない訳ではなくて、自分の視点でしか物事を見ていないから相手が受けてくれるかどうかが分の悪い賭けになりがち。

 だから、賭けの分をよくしていく為に、例えば相手の業界のことを知ろうとしたり、何に困ってるのかを知ろうとしたりするはず。

それを身近な人にもやればいいだけなんです。

 

 でも、散々自分の視点だけで色々と考えてしまうのは実はよくありがち。

 

 恋愛なんかも似たような事が多いと思う。

 

 フラれた、相手は喜んでくれなかったから自分の努力が間違っていたとして自信を無くしたり、安易に相手のせいにしたりする。

 自分の視点しか持ち合わせていないと、上手くいかなかった=自分の能力不足に簡単に直結しやすいから向き合うのはツライものになりやすい。

 

 大事な点は相手の為を考えるって、本当に相手の為を考えていたのか?ってことなのに。

 

 多くの人が陥りがちなのは自分の100点が相手にとっても100とはいかないまでも60点くらいにはなってるだろうと思いがちなこと。

 この考え方の1番の問題は相手と自分が同じ、ないし似たような価値観、視点を持っている前提からスタートしていることだと思う。

 

 1番くらいよく見る話が、会話の目的。

男性は解決を1番に考えがちだけど、女性は共感を1番に考えがちなので、せっかく頑張って解決策を示しても嫌がられる、というもの。

これを男性側は男性目線のまま、頭だけで考えたら意味不明なんですよねw

 脳の構造も影響しているらしくて、そのような傾向ができてしまうのは仕方ないらしい。

じゃあ、どうするか。

理解できても、できなくても「そういうこともあるのね」として、考慮に入れる要素を新たに持てば良い。

 

 けど、これができない人が非常に多いと思う。

(全員ができるとも思わないけど)

 

 自分が理解できないからと言って、落ち込む必要はない。逆に理解できようとできなかろうと、事実、あるものはある訳だし。

 

 相手をバカにする必要もない。

むしろ何かをバカにするのは思考停止で、本当は何も良いことはない。

 

 例えばで恋愛のことを書いたけど、普通とか空気の中で、これをやるから常日頃から思考停止になってしまう。

 

 イコール、自分にはできる事が無いかのように感じがちなのだと思うし、相手のせいにしがちになりやすいのだと思う。

 

 そこまでやる気のある人間ばかりじゃない!とか他人を優先してれば良いのか?などと思われそうですけど、やる気の有無の話じゃなくて、自分がコントロール可能な部分を増やしていく話で、やらされ感を減らそうって話なんですよね。

 

 もう少し言うと、自分が自由になる為。

 

 自由と書いたから何も考えずに気楽に!と思われがちかもしれないけど、そんな自由は世界の王になるか、この世に1人ぼっちにならない限りはあり得ない。

 

 ここで言う自由は自分で選べることを増やすという意味。

 

 自分とは違う価値観を知る事ができれば自分の考え得る範囲も広がるし、色々な人と対等に付き合いやすくなる。

(普通や空気を重んじすぎる人とは上手くいかなくなるかもしれないけどw

 

 

 森保監督もそうだし、会社の上の人間というのは、

本当なら長い目で見ていくことも説明がもっとあっても良いのではないか?とは思う。

けど、受け取る側の素養も大事で、こういう記事を書いてみた次第です。

 

 

 

 

最後まで読んでいただきありがとうございます!

 

 

批判があれば自分も考える材料になるので

コメント欄にどうぞ。

 

ただ、文句は受け付けませんw