今の時代は関係性が希薄と言われ、それは国が悪いとか、親が悪い、学校が悪いなどと言われることがあるけど、完全に必然だと感じる。
何故なら
個人で生きようとしても死ななくてすむ、ありがたい時代になったから。
それを時代を区切りながらまとめてみます。
- 人間誕生から明治、大正、昭和初期
- 戦後まもなくから1960年代くらいまで
- 1970年代
- 1980〜90年代、そして2000年代
- 人間誕生から明治、大正、昭和初期
よく昔は人のつながりが密接だったと言われるようだけど、それは集団生活じゃないと命を守れなかった側面が今より圧倒的に強かったからだと思う。
集団で生きる他に選択肢が無かったとも言える、人間が社会的な動物と言われる所以の話。
マンモスを追いかけていたような縄文時代にはみんなで協力して獲物を追い回し、倒し、分解して家まで持ち帰ることなどをしないと食べ物が手に入らなかったので、当然、何人〜何十人とで協力して生きていかないといけない時代があった。
そんな1万年昔みたいな話じゃなくても、100〜150年前ですら集団で生活していないと生きていけない時代だったと考えられる。
明治生まれ、大正生まれの、今生きていたら100歳はゆうに越える世代までは兄弟姉妹が多かったらしい。
7,8人いることも結構あったとか。
そんな中で、1920年代にある世界恐慌のあおりかもしれないけど、多い兄弟姉妹の中で誰か幼くして亡くなっていることも少なくなかった印象がある。
(うちの祖父は1920年代生まれだけど、たしか弟?が4,5歳で亡くなっていると聞いたことがあったりする)
そして1937年からは日中戦争、1939年からは大東亜戦争がある。
なおのこと、身近に亡くなってる人がいるだろうし、兵隊や軍需産業に人手を取られたところからの労働力不足によっても集団での協力が不可欠な時代だったはずで、集団の和を乱す奴がいたら今以上にものすごく迷惑な存在と見なされたに違いない。
寿命も今ほど長くはない。
晩年は寝たきりで家族が介護することも今よりも多いなど、死や老いが身近な時代。
さらに農業も機械化されていなくてみんなで協力して作業をしていたことや、戦時中の隣近所の協力体制なども含めて、人と人が密接に繋がり集団の論理に従わないないとどうしようもなかった。
個人では到底生きていけないと思いやすい時代がずっとあった。
それは明治〜昭和に限らず、人類の歴史を見たらもっとずっと続いてきた訳です。
- 後まもなくから1960年代くらいまで
その直後に昭和の戦後の時代がある。
(1945〜60年くらい?)
上記の感覚をリアルに経験して生きてる人たちもいれば、ひとつ下の世代(団塊世代)も直接見聞きしている世代。
やはり集団で生きていく事は当たり前の感覚で、それに抵抗感を感じるのは一部の先進的なインテリとか国家権力が嫌いな左翼にしかいないと言ってもいいくらいの時代があったのではないかと思う。
そこから時代が進み日本が復興、発展していくにつれ、上京して働くことや、ホワイトカラーの仕事が良いと見なされるようになっていく。
住むところが変われば、昔からの人間関係から新しい関係性に変わるもののこの時点ではまだ境遇が似ている人が一定数いるせいか、集団優先の価値観は崩壊の兆しを見せてないように思える。
団地や住宅地ができて、そこで町内会なんかも発足してお祭りが新たに開催されるようになったりもする。
ただ、本来のお祭りの趣旨に含まれていた商売繁盛とか豊穣祈願という名目は弱くなったと考えられる。
と言うのは、明治生まれ、大正生まれの世代までは、ちゃんと農作物が育ってくれないと身近に死人が発生する可能性がある。
言い換えれば豊穣祈願=死にたくない的な思いだったとも言える。
そのような切実な思いと、ある程度経済が発展してきて、少しずつ死が遠ざかり、願うのは「より豊かな暮らし」というような思いでは大きな差があって当然。
今を生きる我々がそうだと思うけど、この頃にはもう既に商売繁盛どころか、少しでも夏の思い出になれば良い、くらいの感覚ですらあったのかもしれない。
願いの切実さに比例して、少し関係性も弱くなったのではないか。
町内会での協力はゴミ収集などの部分で自分たちが困らないように協力する程度で切実な理由はないし、お祭りも上記のようなもの。
一人になったところで生きていく分には昔ほどは困らない。
たとえ近所と関係性が悪化したり、ハブられるようなことがあったとしても食べるのには困らない時代に少しずつ突入しているんですよね。
そういう意味でも集団で生きていく必要性が弱くなっていく。
必要性が弱くなるということは、集団から抜け出しやすくなったとも言えるのだけど。
- 1970年代
1970年代以降になると、経済的にも豊かになってきて、それぞれが個人で頑張って出世競争みたいな価値観がより一般的な時代になっていく。
この頃からじゃないですかね。
芸能界が本格的に活性化して、一般人からもそうなりたいと思う人たちがあからさまに増えてくるのは。
もっと前からかもしれませんが
流れは変わらないのでこのまま進めます。
今でこそ、芸能界なんてものは人気者になれる、夢のある業界だけど、昭和以前の芸能界的なものは大道芸人的な存在だったり、裏社会とも繋がりのあるような繁華街のエンターテイメントに過ぎない訳で、なりたいからなるというよりは、身寄りがないとか何かしら事情があるような人が食べるためにやる、カタギとは言い難い立ち位置だったりしていた。
とはいえ、裏社会も今の暴力団みたいなただ悪どい存在というよりは町の自警団的な側面も強くて、トラブル回避の為の用心棒的な存在(少し違うけど)だったりした訳だけど。
時代が進んでラジオが出てくることで一般人にも広く知れ渡る有名人が出てくるようになるからだと思うけど、ただの水商売からカッコいい存在になる人たちが出てきて、テレビの時代になると、それがさらに加速する。
厳しい上下関係など、裏社会的なものが残るのは残ったけど、多くの人たちの目に触れる分、少しずつ安全なカタギに近い界隈になっていったであろうと推測します。
芸能界が盛り上がるとか、好きな音楽をやるということがやりやすい平和な時代になっていくのですが、世の中のメインの流れは経済成長の影響か、良い高校、良い大学、良い会社と学歴社会に突入していく訳です。
少しずつ個人の成功を願うほうが強くなりますが、ここではまだ町内会がちゃんと機能していたり、隣近所の関係性がまだ残っていたりするなど集団生活によるメリットもだいぶ享受してきた人たちがいるので、個人で生きていくというよりは、より強い集団に入ることが良しとされていたように思います。
同じ大学の卒業生や、入った会社の同期、先輩後輩など。
言い換えると、どの集団に属するかを自由に選べる時代になったとも言えます。
遊びが増えていく時代でもあるので、その分、一般人が政治への興味が向きにくい時代になっていったのはこの頃からかもしれませんね。
4. 1980〜90 年代、そして2000年代
80年代はこの延長線上にあって、遊ぶ人と真面目に頑張る人が二極化していった時代じゃないかな、と思います。
どちらにせよ、どの集団に属するかは選べる時代になっているので、個人の感覚で選んでいく、良く言えば自由で流動性のある、悪く言えば今までの集団生活の論理が通じないようになってきたとも言えます。
加えて、集団が本格的に経済レベルによって固定され始めていきます。
裕福な集団は裕福な人たちの価値観で動くし、貧しいほうは貧しいほうの価値観で動く。
住む場所も高級住宅街と団地などで分かれていく。
人と人が繋がる理由が地縁ではあるのですが、経済的なものからくる時代とも言えますね。
でも面白いのは、経済的に良い立ち位置になれない、芸能界に入るなどして人気者になれないのなら、ファッションとか生き方でステータスを作れるようになり、ある特定の人物がカリスマ化し、それを参考にして生きていくような人たちが増える。
集団とは言えない、でも影響力があって、共通言語のある人たちが全国規模で増えてくる。
正確にはいつからいるのか分からないけど(80年代?)、ヤンキー、暴走族なんかも同じ類のものでしょう。
自己実現の話と言えるのかもしれないけど、憧れる存在、ある意味では教祖のような存在がいて、それと繋がるような気持ちになる為のファッションや行為がある。
おそらく、90年代もその延長線上。
ここまで来ると、戦後まもなくから見ても2世代は過ぎていて、もう昔ながらの集団の必要性を感じない人が多くなっている。
自由主義的というか、資本主義的というか、より有意義な界隈にいたほうが、人生において得をすることになるのだから。
よりステキな界隈があれば、どちらかと言うとダサい界隈と見なされる人たちもいるのも必然となる。
このような価値観の元で成果を出した人たちが言うのだと思うけど、2000年代以降(後半?)は「好きなことをやったら良い」的なフレーズが頻発することになり、願う者、願わない者、好きなことが見つけられた人、見つけられなかった人など色々な要素で差がついていく。
価値観の差も大きくなり、自己責任論が強くなってきたりもする。
さらにネットの発展とともに有名になるのにも稼ぐにも個人の力だけでも可能な時代になっていくと、更に差が広がる。
もう少し正確に言うと、ネットの掲示板時代を経て、SNS時代になり、自らの努力で何とかしたい意思を持った人が繋がる、協力することが容易になったので既存の会社などの集団に頼らずとも個人の力で生きていけると思う人が増えたということ。
そうして個人個人が自ら選んだり、流れに身を任せた結果、2024年の日本は経済的な理由だけでなく、色々な理由で優劣が大きくついてしまうようになった。
(優劣がついてるように見えるようになっただけ?)
なので、親ガチャと言われたり、「たまたま近所に住んでいただけなのになんで深く関わらないといけないの?」みたいな意見が出てくるのは全く不思議ではないと思う。
加えて、最低と感じるラインが引き上げられてしまっているからツラいのだと思う。
上記の話とダブる部分もあるけど、
歴史上ずっと1970年代くらいまでは文字通りに今日食べるものにも困ることなど、死にそうな(と言ってもいいくらいな)人が最低ラインとして認識されていたのだと思う。
けど、社会が豊かになり人が簡単に死ななくなった現在においては、食べ物には困らなくても、一応車は持っていても最低と感じてしまう人が増えてるみたいだ。
これは良いことでもあるのだけど、社会の中で最下層に近いように見えるツラさという意味で言えば実は大差の無い話に思う。
むしろ、昔のほうが食べ物がない、病気が治せないだけなら、そこさえクリアできたら…と希望が持ちやすかったのかもしれない。
社会が底上げされてる分だけ、高みを目指しやすくなった側面もあるだろうけど、それは強者の話。
多くの人は平均を目指すからタチが悪いのだと思う。
昭和なら中流の暮らしというものが定義されていた面があって基準も分かりやすかったのだけど、今は分かりやすい中流の基準がなく、目指すのは個人の幸せなんていう千差万別のものになっていっている。
そんな中で世の中で中流を目指してしまうと、目立たない=普通という幻想のようなものにしがみつくことになり、無色透明みたいな人間関係ばかりになってしまいそうな気がする。
社会に希望がない的な話はこういうのが原因じゃないか、とすら思う。
(昭和の希望も誰かが作ってくれていたものだと思いますが)
この流れを陰謀論的に見たらGHQが日本人の価値観を壊したとも言えるのかもしれない。
(アメリカ流の自由を良いものだと思い込ませるところから含めて)
日本人(の先輩たち)が戦後に生き残りをかけてもがいて、頑張って、でも取りこぼしてきたものがあったからこうなっているのかもしれない。
何にせよ、新たに人と人が繋がる理由、もしくは、人と人が助け合う理由を再構築しないとどんどん弱肉強食の時代になっていくのだろうと思う。
食べるために(死なないために)働く時代から
より良く生きるための時代にシフトしてきているのは間違いない。
とは言え、昔なら毎年の地域のお祭りが生きるモチベーションになったり、集団が提供してくれる楽しみはあったとは思う。
でもそれは知ってるのは自分の町とせいぜい隣町くらいだったり、高さを具体的には知らない=高望みが難しいという側面があったから機能していたように思う。
逆に今は高みがなんとなくは見えるのに自分の考え方では辿り着けないもどかしさがあったりする。
人と比べやすいから、簡単に自分には無理だと思えてしまうのかもしれない。
死が近いけど求められることも限られる時代と、死は遠くなって自由な時代と、結局はどっちが良いのだろう??
最後まで読んでいただきありがとうございます😊