メタル、音楽、日々のこと。

なんとか生きている人と音楽

鬱から完全復帰すべく、頭と気持ちの整理の為にも色々書いてたりします。あと時々音楽の話。

いじめは承認欲求の問題

 

 

 残念なことに悪質ないじめのニュースは絶えない

 

 ネットを見てると犯罪行為なんだから厳罰化しろとの声がすごく強いように見えますが、いじめって悪いことかどうかよりも、承認欲求の問題として見ていかないと減らせない、と考えるのは暴論でしょうか。

 

 人間誰しもが世間や他人よりも仲間内のほうを優先したい生き物ですよね。

だから多少は世間から変に思われたとしても、「仲間内で良しとされたらオッケー」と思えることは意外とある訳です。

この「仲間内でのオッケーがある」というのがいじめでもポイントだと思っています。

これを承認欲求を満たした状態として話を進めていきます。

 

 いじめというのは、仲間内でウケたり、リアクションしてくれたりして何かしら楽しい思いをするのなら、仲間とは思ってない人を攻撃することは悪いと思ってたとしても、仲間からの反応のほうが優先されてしまう事だと思うのです。

 

 まして、最初は実にちょっとしたことから始まったらどうか。

少し笑える発言があった、

少し人を嘲笑するくらいだったら、

それを周りからは何も言われなかったとしたら?

むしろ仲間内では盛り上がったとしたら?

 

簡単に「次の一手はどうしようか?」と思ってしまうはず。

これって客観的に見たら悪いことに見えますけど、仲間内の視点だけで見たら間違いなく善意なんですよね。

「どうしたら仲間が喜んでくれるか?」

という考え方ですから。

 

 

 周りからも最初のうちはちょっとからかってるだけに見えて、よくあることのように思うでしょうし、そんな事でいちいち叱ったりしていては学校側も仕事にならないのでは?と思います。

 これが少しずつ少しずつエスカレートしていくので、大問題になっていたとしても、いじめる側も周りも気づきにくい。

そんなパターンがあるんじゃないかと思うのです。

逆にケンカみたいな明らかに問題な行為が最初からあったら、喧嘩両成敗とかなんとか言って怒られますよね。

まさしく茹でガエル理論な訳です。

 

 

茹でガエル理論とは

 カエルを熱湯に突っ込んだら即逃げられますが、水からゆっくりと温度を上げていった場合、温度変化に気づきにくくカエルは茹で上がってしまうこと

 

 

まさしくではないかと。

 

 

 そんなことある?と思うかもしれませんが、例えば学校や職場で人と関係性が悪くなるきっかけって、実はほんとに微妙なミスだったり、少し言葉が足りないことだったりしませんか?

 そこから挨拶しかしなくなったり、他人行儀な話だけしか話さなくなったり、その人がいてもいないかのように周りだけで話すなどして、気づいた頃には話しかけようにもお互いに気まずいような空気が出来上がる。

 下手すると周りに溶け込めない奴が悪いなんて認識にもなったりする。

そうなると、余計に何もできなくなってしまう。

 

 もし、仲間はずれにしてる側が注意されたり、何か罰があったとしても、悪気があってやってることではないから、と自分の行動を振り返るきっかけにはなりにくいだろう。

 

 例えばこんな感じで少しずつ少しずつ距離が出来ていくので、無視や仲間はずれなんていう悪いことをしている認識は薄いはずなんですよね。

 本人からしたら意味不明に仲間はずれにされてると感じていてもおかしくないのに、です。

 残念ながら、世間ではこの程度なら意外と多くあるんでしょうね。

(そういう自分も、もしかすると気づいていないだけで加担しているのかもしれません)

 

 それでもやはり、多くの人は人の嫌がることを行動に移すところまではいかないんでしょうけど、このようにごく些細なことから始まりちょっとずつ変化していったとしたら、悪口が相手に聞こえてしまったり、何かエスカレートするきっかけができてしまったら、そんな悪口だって、「ちょっと聞こえちゃうよー笑」みたいに仲間内での楽しさのほうが簡単に優先されてしまいがち。

 

 そして時間が経つと、大問題になっていたとしても仲間内では大いに盛り上がっているから悪いことをしてる認識は薄く、気づかないというようなことは起こり得ると思う。

 周りにいる人たちからしても、いつから、何がどう悪いのかハッキリとは認識できないから、注意も反論もしにくい。

まして多数派だったり、カーストの上位と見られてるグループだったりしたらなおのこと。。

 それで例えば、いじめられる側にも悪いところがあるから直すように要求したりするなど、安易に多数派が少数派に対して対処方法を決めて終わり、とするなど対処方法と呼べるようなものは出にくくなるような状況は意外と簡単に出来上がりそうです。

 

 問題の肝は仲間内の盛り上がりや連帯感が、誰かの犠牲の上に成り立っているところだというのに。

 

 なので?

 集団生活の中では大人数が盛り上がってるのを止めさせるのは時として悪いことのように写ったりもする。

 

 学校側の監督責任で叱れば良いとか、厳罰化して罰を与えたほうがいいとの話は簡単に出てくるようですが、単に間違った人を排除するだけで再発防止やいじめ対策にはなり得ないと思います。

 何がどのように悪いのかをハッキリとは認識しにくい訳だし、なんせ承認欲求という抗い難い欲求を満たす為の行為な訳だし、それでいて仲間内は楽しいのだから。

さらに範囲を限定して見た場合、誰にも悪意は無い、とも言えてしまうんですよね。

 

 

 最近の日本がおかしいからそうなるのだろうか?

個人的にはそれは違うと思う。

社会が次のステージに突入しているからではないか、と。

 

 現代の日本ではありがたいことに衣食住は最低限はあるのが当たり前。

犯罪に巻き込まれるような危険性もほとんどない。

 となると、多くの人にとっての1番の問題は自分の承認欲求が満たされるかどうか、となっているように思います。

 自分で自分を満たしてあげられたら1番いいのかもしれませんが、やはり誰かから満たされるほうを求めてしまいがちですよね。

 

 色々な作品でも人は孤独には耐えられないという話は良く出てきたりしますし、人から認めてもらい、満たされるのは何にも変え難いんでしょうね。

例えが古くてアレですがw

ナルトのこのシーンを真っ先に思い出しました。

 

 

 

 なので、いじめというのも承認欲求の満たし方が間違ってるのだから、と一緒に考えていかないといけない問題なんだと思うのです。

 

 起きてしまったいじめへの厳罰化も悪くはないと思うけど、それ以上に人や自分との向き合い方、もっと言うと対話できるように誰かから教わる機会があって欲しいと思う。

 

 今や本やYouTubeでも学べたりしますが、そんなことができると知らなければ探すことすらできないので、どこかで半強制的にあってくれたらありがたいと思う。

 

 いじめ対策以上に、現代社会を生きるにおいて何が自分の生きがいになり得るのか、何があれば自分は幸せなのかを考えやすくなるとも思うので。

 

 現状では多くの人が人の意見を受け止める聞き方が我流でしかない上に、質問もしないから自分に対しても当然できない。

そんな人が多いから、何かやって上手くいかなかったら他人と比べて「レベル低すぎ…」と落ち込んで終わり。

人のせいにして終わり。

となりがちじゃないですか。

(ちょっと前までの自分がそうでしたがw)

 

その結果、何かが変わる訳でもなければ、自己肯定感も上がらない。

学校のテストだってそうじゃないか。

テストは強制参加で点数の良い悪いは必然的に点数として知らされるけど、悪い結果は隠しがちだし、次回の対策ができるかどうかも本人次第にされてしまいがち。

本当は次に繋げられる養分がたくさんあるのに。

 

そこで、

質問ができると改善にもつながるのだけど、誰からも教わらないから現状はセンスとして持っている人しかできない。

(教えたとしてもセンスはあるだろうけど)

 

分からないのはどの部分か?

聞けそうな人はいるか?

聞くのは恥ずかしいいい照れ隠しはあったりするか?

ネットで調べられそうか?

勉強方法は改善できそうなポイントはあるのか?

点数の良い人はどのように勉強しているのか?

などなど

 

 このような質問が学校でできるようになったら、きっと自分の人生に対しても同じことをする。

それはつまり自分にとっての良い生き方を探すことに繋がるし、もっと自由に視点を変えて質問できたらなお素晴らしい。

 

 これでおそらく副作用的にいじめの件数は減らせるのではないかと思う。

だって、自分の人生のことをちゃんと考えたら他人を攻撃してる暇なんてないですw

仲間じゃない人間をいじめる意味もない以上に時間も体力ももったいなさすぎですからねww

 

 

でも、次のステージにいったら次のステージのいじめがあるだけなんですかね?

・・・

 

 

 

最後まで読んでいただきありがとうございました😊