最近までは常識とは縛るものという印象が強くて、良い印象なんてなかった。
常識とは誰でも同じ内容、多くの人に共通するものとしか認識していなかったから。
そんな当たり障りのない内容だけで楽しめたり、満足したりする人だけが会社や世間での人間関係を楽しめるかのように思っていた。
音楽で言えば、売れてるポップスしかない世界で、そんなものは絶対につまらない💢と勝手に思い込んでいたんだろうな、と。
けど、違うかもしれない。
常識はみんなの前では非常に大事。
不特定多数が半ば強制的に関わらないといけない社会においては無いほうがむしろ不便だとは思う。
だけど、人と人が仲良くなろうとすると入口にすらなりにくい。
だからきっと、
自分を大事にしていないと、自分のどの部分が常識とは合っている、合ってないの境目が分からないので、常識(おそらく空気も?)を無条件に優先せざるを得なくなるのだと思う。
逆に言うと、この境目をハッキリさせていくことで自由になれるのではないか、と。
常識を無条件に優先するから息苦しいし、つまらないものになるのであって、自分の中のどの部分が常識、非常識と分けていけたら人や空気に合わせるという半ば強制力みたいなものから、ある程度逃れられて、自由な(コントロール可能な)部分が増えそうだ。
自分の中でどの辺りに常識と非常識の境目があるのかが見えてくれば、少し自分を出す試し撃ちをして相手からはどう見えるのか、と確認ができる。
同じく、試し撃ちをしていい相手なのかどうかも見えてくると思う。
そうやって、自分のことを少しずつ出していく。
自分のことを出せたら、おそらく相手のことも受け入れる余裕も出てくる。
結局、人と仲良くなるのが上手い人ってこの辺りが上手いんだろうな、と思う。
常識とか周りを優先しすぎると、このような自分に有利なコントロールすら、細かいことをやらされるような感覚を覚えてしまい、わざわざそこまでしたくない気がしてしまうのだろうな、と。
人と本当の意味で仲良くなれたり、個性を出していくのって、強い人だけができるのかと思っていたけど、違うのかもしれない。
「最適化」なんだろうな、と。
当然、相手によって自分を出す範囲、程度は変えるはずだから。
で、馬が合うというのは、その最適化が自然にできちゃった時の事を言うのかもしれない。
あくまで「できちゃった」のだから運に任せるしかない。
そこで、
自分をより細かく知っていく事でコントロール可能な部分を増やす=自由度が増えることになるんだろうな、と。
自分ばかり見ていたところで見えてこないのが、難しいところだし、色々と経験したり、人と自分はどのように違うのかを見ていくのも優劣を感じてしまいやすく、これまた難しい😓
優劣ではなくパラメータみたいなもんなんだし、向き不向きがあるだけなんですけどね。